先に徳川家康を討つべきだったな明智は
所ジョージのせいで消えていく古文書
103 チーター(大分県) [US][sage] 2021/01/02(土) 22:19:01.23 ID:Yjo5kmME0
>>98
10数年前のテレビ番組で、所ジョージが古い和書を古本屋で買ってきてバラして自分で作ったオブジェに貼り付けてた
「誰かにとっては意味のある本かもしれないものをこういう無意味なものにくっつけるのが楽しい」んだそうな
世の中には金持たせたらいけない奴ってのがいる
信長と光秀が共謀して死んだことにして2人でローマに行った説好き
>>42
信長と森蘭丸は本能寺の変のときにちょっと未来にタイムスリップしてモンゴルに渡ってイワン雷帝を倒したんやろ?
俺は歴史に詳しいんや
信長と森蘭丸は本能寺の変のときにちょっと未来にタイムスリップしてモンゴルに渡ってイワン雷帝を倒したんやろ?
俺は歴史に詳しいんや
>>56
千利休が戦国時代に駐在してる未来の時間管理局員という設定なら、時空の旅人で観た。
そして、現代から来た高校生達を茶室型タイムマシンで送り返す。
千利休が戦国時代に駐在してる未来の時間管理局員という設定なら、時空の旅人で観た。
そして、現代から来た高校生達を茶室型タイムマシンで送り返す。
普通に考えてトップがそんな最前線に行くわけないだろ
>>62
項羽や獅子心王リチャードみたく
大将が最前線で大暴れしてた事例はいくらでもあるわい
項羽や獅子心王リチャードみたく
大将が最前線で大暴れしてた事例はいくらでもあるわい
痴話喧嘩でキチョウさんが信長殺してしまい 十兵衛が後始末した とか?
明智氏をナビ
ディープステートの都合のいいように歴史は修正されている
> 事件から87年後にまとめられた古文書に記録されていた。
これ、信憑性どうなのよ?w
>>70
まとめられたのが87年後であって
本能寺の話は参加した斎藤利三の息子から聞いたものだから信憑性あり
まとめられたのが87年後であって
本能寺の話は参加した斎藤利三の息子から聞いたものだから信憑性あり
そんな大将が先陣切るのなんてドラマか映画の中だけよ。
先陣切って生き残れるはずがないじゃない。
先陣切って生き残れるはずがないじゃない。
>>87
そらそうだ
そらそうだ
>>87
源平のころには一騎討ちがあったし、大将自ら戦って示さないと士気が上がらない
普通に考えたらわかるだろ
源平のころには一騎討ちがあったし、大将自ら戦って示さないと士気が上がらない
普通に考えたらわかるだろ
歴史は繰り返す
豊田真由子=信長
>>53
まぁ 今回の大河ドラマが薄すぎてつまらんね。
半年分カットでよかったんじゃねーの? 光秀関係ないしw
半年分カットでよかったんじゃねーの? 光秀関係ないしw
>>116
うまい!
月代にかけて
半分カットとは
うまい!
月代にかけて
半分カットとは
信長も本能寺行かなかったってさ
あのハゲクレス伝説の様に
進撃のフサ
逆襲のハゲ
進撃のフサ
逆襲のハゲ
>129
後の2つも対比する形で、本能寺と酷似する部分が描かれてたよ。10年以上前に読んだ本だから、細かい所は忘れてしまった。結論は、成功させなければ未遂で終わってクーデーターにならない。クーデーターを成功させるには、クーデーターを予見する政権側の上手を行かなければ、成し遂げる事は困難と。戦国時代も謀反は当たり前のように起こる出来事で、信長クラスになると神経質に謀反対策には、慎重に重点的に懸念がなかったと書かれてた。信長側から見たら、少数の手勢で入っても謀反のムの字も起こらないと確信して本能寺に宿泊したと。光秀がその上手を行ったということ。
後の2つも対比する形で、本能寺と酷似する部分が描かれてたよ。10年以上前に読んだ本だから、細かい所は忘れてしまった。結論は、成功させなければ未遂で終わってクーデーターにならない。クーデーターを成功させるには、クーデーターを予見する政権側の上手を行かなければ、成し遂げる事は困難と。戦国時代も謀反は当たり前のように起こる出来事で、信長クラスになると神経質に謀反対策には、慎重に重点的に懸念がなかったと書かれてた。信長側から見たら、少数の手勢で入っても謀反のムの字も起こらないと確信して本能寺に宿泊したと。光秀がその上手を行ったということ。
>>127
天海が光秀はあり得ないでしょ、どれだけ政治力があっても、隠しおおせるわけがない。
天海が光秀はあり得ないでしょ、どれだけ政治力があっても、隠しおおせるわけがない。
>>138
あり得ないと思うなら、日光東照宮に行って見てくれ
自分の目で確かめるといい
あり得ないと思うなら、日光東照宮に行って見てくれ
自分の目で確かめるといい
ふーん何もせず打首されたのか?
それが、珍しくて現代まで語りつがれたのでは
それが、珍しくて現代まで語りつがれたのでは
今回の大河は作ったのか?
光秀と天海は筆跡鑑定の結果別人と言われてるのになあ
>>169
それとか、学会ですでに別人認定されてるとか、言わないでいてあげたのに・・。
それとか、学会ですでに別人認定されてるとか、言わないでいてあげたのに・・。
日頃から独善気味の利三が勝手に暴走して
終わってから光秀知らされて頭抱えるも退くに退けなくなって、、、
とかちょっとありそうな
終わってから光秀知らされて頭抱えるも退くに退けなくなって、、、
とかちょっとありそうな
なかなか興味深い話ね
>>172
この記事どこにそんなこと書いてあるんだよ
この記事どこにそんなこと書いてあるんだよ
攻撃目標は二ヶ所
脱出阻止や逆襲対処まで含めれば、作戦区域は洛外まで及ぶ
総指揮官が前線の一正面に貼り付くわけにいかんだろ
脱出阻止や逆襲対処まで含めれば、作戦区域は洛外まで及ぶ
総指揮官が前線の一正面に貼り付くわけにいかんだろ
清洲同盟から続く信長への信義・忠誠が家康の威信の源やからな
そこが揺らぐと大変なことになる
そこが揺らぐと大変なことになる
>162
本能寺の変の何が素晴らしいというのは、クーデーターが終わった後のタイムスケジュールも完璧に近い形で作成されてたらしく、誤算が出て結局、天下を取れなかったが、本能寺の変の後の光秀の行動は間違いなかったと書かれていた。たくさん誤算が出たのは、信長の首、味方につかなかった諸大名、毛利氏宛ての書状が備中高松の切腹前までに届かなかった、秀吉中国大返し、とほころびが出て瓦解したけど、朝廷など根回しは完璧だったらしい。
本能寺の変の何が素晴らしいというのは、クーデーターが終わった後のタイムスケジュールも完璧に近い形で作成されてたらしく、誤算が出て結局、天下を取れなかったが、本能寺の変の後の光秀の行動は間違いなかったと書かれていた。たくさん誤算が出たのは、信長の首、味方につかなかった諸大名、毛利氏宛ての書状が備中高松の切腹前までに届かなかった、秀吉中国大返し、とほころびが出て瓦解したけど、朝廷など根回しは完璧だったらしい。
>>197
いや、ほころびだらけやんw
てか、前もって娘婿の細川家ぐらいには話を通しておくやろ、普通。
細川すら光秀に付かなかったと言う事は、まったく根回しがされてなかったんやん。
いや、ほころびだらけやんw
てか、前もって娘婿の細川家ぐらいには話を通しておくやろ、普通。
細川すら光秀に付かなかったと言う事は、まったく根回しがされてなかったんやん。
まぁ、その陶自体も毛利にさんざん下準備されてるけどな。
どっちにしても成功する側は計画すごい。
どっちにしても成功する側は計画すごい。
黒幕は中央の朝廷やら、法曹界、利権集団で、秀吉もその動きを知っていて、光秀の動向には細心の注意を向けていた。
勿論信長には黙っていたので、こちらも真っ黒(一枚かんで光秀そそのかすというか、動きやすいように仕向けたとか)。で、実際事が起こって漁夫の利を得た。
とかも面白そう。
多方面から持ち上げられた光秀がきっと周りは自分の味方と勘違いして決起する。
勿論信長には黙っていたので、こちらも真っ黒(一枚かんで光秀そそのかすというか、動きやすいように仕向けたとか)。で、実際事が起こって漁夫の利を得た。
とかも面白そう。
多方面から持ち上げられた光秀がきっと周りは自分の味方と勘違いして決起する。
>>201 戦国時代の法曹界って、なんだ?🤨
>>211
仏法界?法僧界?そんなニュアンスで書いた。
仏法界?法僧界?そんなニュアンスで書いた。
>>221
そういう意味か。法曹界ではさすがにわからんw
そういう意味か。法曹界ではさすがにわからんw
仏教界とか聖界とかなら、意味わかるが。
光秀は最終的には渋々OKしたかもしれないが
基本は斎藤内蔵助と明智秀満が
徳川家康の要請受けてやったこと
光秀が積極的だったら本能寺囲んで
数時間そのまんまなんて甘いことしない
基本は斎藤内蔵助と明智秀満が
徳川家康の要請受けてやったこと
光秀が積極的だったら本能寺囲んで
数時間そのまんまなんて甘いことしない
まあ夜討ち朝駆けに自ら赴くのって
頭のおかしいヒャッハー武将くらい
頭のおかしいヒャッハー武将くらい
戦国武将の織田信長(1534〜82)が、配下の明智光秀(1528?〜82)に討たれた本能寺の変(1582年)をめぐり、光秀は本能寺(京都市中京区)の現場には行かず、
部下に実行させていたとする学説が出てきた。本能寺の変に参加した家臣から聞いた情報として、事件から87年後にまとめられた古文書に記録されていた。
これまで映画やドラマなどでは光秀本人が寺を襲ったように描かれてきたが、それを裏付ける史料はなく、研究者の間でも議論されてきた。
古文書は江戸時代前期に、加賀藩(現在の石川県と富山県の一部)の兵学者、関屋政春(せきやまさはる)が書いた
「乙夜之書物(いつやのかきもの)」(金沢市立玉川図書館近世史料館所蔵、3巻本)。
史料の存在は一部で知られていたが、主に加賀藩に関わる部分が注目されてきた。
このほど、富山市郷土博物館の萩原大輔主査学芸員(日本中世史)が読み解いて明らかにした。
萩原さんによれば、本能寺の変の記述は1669年に成立した上巻にある。
寺を急襲した光秀軍を率いたとされる重臣の斎藤利三(としみつ)の三男で、自らも数え16歳で事件に関わった利宗(としむね)が、
おいで加賀藩士の井上清左衛門に語った内容として収録されていた。
利三と、光秀重臣の明智秀満(ひでみつ)が率いた先発隊2千余騎が本能寺を襲い、光秀は寺から約8キロ南の鳥羽(京都市南部)に控えていたと書かれている。
奥書(書き入れ)には、関屋が息子のために書き残し、他人に見せることは厳禁とある。
萩原さんは「関屋の自筆本で後世の加筆もないとみられ、事件に参加し、重要情報に触れ得る立場の人物が情報源であることから、信頼性が高い記述ではないか」とみる。
光秀本人が本能寺を襲ったと考えられてきたのは、光秀と交流があった公家の吉田兼見(かねみ)の日記(1570〜92年)などに
「惟任日向守(光秀のこと)、信長之屋敷本応寺へ取懸」などと記されていたためとみられるが、うわさを書き残した可能性も指摘される。
光秀が本能寺に行かなかったことについて、本郷和人・東京大史料編纂(へんさん)所教授(日本中世史)は
「十分あり得ることではないか。光秀自身が最前線に赴く必要はないし、重臣を向かわせたのも理にかなう」と話す。